森の妖精

100字。日課。

3/10

今使ってるiPad mini4が変な挙動をするようになった。小さな文字を読むのがつらい自分としては、大きくもなく小さくもないちょうどいいサイズのiPad miniがちょうどいいのだ。4が出てからかれこれ3、4年経っただろうか。新しいバージョンのが出ていないため、チップも昔のだし、動画を見る分には熱くなるだけで大丈夫なのだが、動く系のゲームをするとあちあちになってしまうのだ。ほかのメーカーの同じサイズのも検討してみたが結局使わないことになりそうで購入にふみきれない。さらには新しいのが出るというリーク情報もある。Appleの業績も傾いているというし、そろそろ新しいのが出て来てもおかしくないのだが、やっぱりそうかということになってしまいそうだ。

3/9

ここに何を書こうと考えるようになったらほかのことに支障をきたすからやめようと思っているが、昨晩は明日書く内容を考えるようになってしまったから、そろそろ終わりになるかもしれない。その内容は「神社に参拝するのは、自分でそうしてるのでなく、実は神さまに呼ばれてるから参拝してるのではないか」ということだ。話の流れをああしようこうしようと考えているうちに、何だか嫌になってきてしまった。自分としてはそのようなことを思ったということのほうが大事で、どのように書くかはどうでもいいと考えてしまうたちなので、そのようなことを考えてしまうのが嫌なのだ。

3/8

真面目なことを書くのは疲れるが真面目なことも書いておこうと思う。人というのは善人だったり悪人だったりいろんな人がいるけれども、その人がなぜそうなっているかというと、ひとえに習慣によるものだと思う。しかし習慣は意識的に行なっているわけではないので、それを変えようと思えば、自分のうちに眠る無意識に自らが気づかなくてはいけない。これは容易なことではない。他人と比べても自分の基準で見比べているだけなので結局はその無意識には気づけないからだ。だから習慣は容易に変えられないということになる。自力でできることは、神頼みか、悪いと思うものからなんとなく離れることぐらいだと思う。

3/7

草がぐんぐんぐんぐん伸びるように思い思いに育つのは見てて気持ちがいい。家の近くの広場では、夏のあいだに、草が背丈ぐらい高くなるのだが、いつも時期が来ると業者さんが来て刈り取ってしまう。それはそれで仕方ないと思うのだが少しさみしい。盆栽というのも苦手だ。造形が施され、あるべき形でないものを見るのはつらい。本来植物は地面で育つから、鉢で生きてるうちに植物も仕方ないと思うのかもしれない。人の技術で育てるのは可能性を摘み取ってる気がしてしまうのだ。人間も同じように盆栽のように育てられているから、今の日本のありさまは自然の中の植物が全部盆栽に置き換わってしまっている感じだと思う。

3/6

きつね、ねこ、こぶた、たぬきが頭にこびりついて離れないことがある。えんえんと続いて、そして気付いたら終わっている。ぱんだ、うさぎ、こあらというのもあるが、これはしりとりになっていないのでちょっとだけ違う。街角で聞いた音楽とかスーパーの音楽とかも頭から離れないことがある。そういうときはそれを打ち消せるようなメロディーを考えて上書きしようとする。でもなかなか前の音楽から抜け出せない。しかし時間が経てば、すっかりそのようなことなど忘れてしまっているのである。

3/5

お腹がふくれると眠くなる。だからと言ってまったく食べなきゃいいというわけではない。腹は減る。少量食べるともう少し食べれると思い、食べなくていいお菓子をぱくぱく食べてしまい結局食べ過ぎることになる。女の人は大量に食べた後にショッピングするのが得意だが自分は苦手だ。まずそのフロアのイスを探してしまう。そして人が少なくすわり心地のいいイスに腰掛け、通り過ぎる人を見る。 いろんな人を見るが結局何も考えていない。視点を変えればこういう時代だからとかこういう流行だからとかいろんなことを考えられるが結局何もしない。疲れるからだ。食べたあとはゆっくりするに限る。

3/4

やっぱり原稿用紙1枚分の400字は面倒くさすぎる。だからこれからは200字を目安にやっていこうと思う。これならツイッターのほうでいいじゃないかということもあるが、それだと途中で文字が切れてしまうので、やっぱりこういうブログ形式のほうが良いのである。何でもいいから書くというのも難しいものだ。どうでもいいことを書けばいいのに次第に何かどうでもよくないことについて考え出してしまう。もうそろそろ200字だ。今日はこれで終了。これぐらいのほうが気楽だ。